無頼茫々、全ての日程が終了いたしました。
ご来場ありがとうございました。
今回のような物語に「熱き物語」という評価をいただくことはとうぜんのことであると思います。大正という時代の持つファンタジーはまさに人間の持つ熱量の大きさであり、それを提供するために、俳優の身体改造を含め、様々工夫を凝らしました。
ここから先は伝わったことと伝わらなかったことを誰かのせいにするつもりでは書いておりませんので、それを踏まえたうえで、作り手の真情というものに触れたいという方のみお進みください。作り手は、意図はすべてお客さまの手に委ねるべきものです。これまでほとんど書くことはありませんでしたが、今回はいろいろ考えたうえでの例外として書いております。
演出家として日々考えていたことは、この物語の持つ、冷えた批評性をどのように伝えるかということでした。こういった熱き物語は俳優を燃やし、稽古場を燃やします。そのなかで現在の劇作家である詩森がちりばめた、おそらくはとても解りづらい批評性をどう伝え、どう身体化し、作品としていくか。
つまり、日の出新聞が是であり、ほかが非である、というラクな光の当て方から、どうすればもう少し複雑なプリズム上の光を放射する物体へとこの作品を昇華できるか、という戦いの日々であったと思います。このような作業をしようと思ったときに、俳優の持つ哲学であるとか思考力であるとかは相当に重要になってきます。また仮にうまくいったとしても必ずしも的確にお客さまに届くとは限らない。それは、やはりお客さまが観劇以前に持つモノの見方というものにもどうしても関わってくるからです。
終幕近く、主人公の堂海は、大阪まで当事者である若い記者を訪ね、朝日の弱腰について取材することに成功します。ただ熱く反権力として戦う話を書きたいとしたならば、ここで日の出新聞はおそらくその現状を暴き、正義を高らかにうたいあげることでしょう。しかし堂海はシラリとして答えます。「書きません」と。そのかわり一面にかつてしたためた抗議文を全段抜きで載せることを迫ります。
これをただの熱き正義と思われたなら、この作品を作った甲斐というものはほとんどないということになります。
この堂海の行為が示すものは、確かに正義かもしれませんが、自らが思考し、選びとったものです。ただ熱く燃えている人に、おそらくは西村天囚の断腸の声は聞こえない。この他にも、よくある正義の方向に物語が流れていく瞬間に、堂海はときに軽口で、ときに真摯に言葉を尽くしていきます。それが登場人物たちの思考や時間を進めていくのです。堂海と思想を共にする島津や村嶋さえ自分の未明を恥じる瞬間を堂海によって与えられていく。
そしてその堂海も、富永の知識と体験に基づいた深い思想には頭を垂れ聞き入ります。
このあたりの登場人物たちのコンテキスト・サブテキストともなっていく思想については、どんな資料にも書かれてはいません。陸羯南を読み込み、その男の思考に惚れた青年ならばどのような思想を持ちうるのかとね捏造したのが主人公・堂海栄吾ですし、そのほかの人々についても個別にその根幹を為す思想について設定し、そのなかで言いうる言葉をつづっていったつもりです。
また、権力に抗するという単純構造はもちろん使用しているわけなのですが、わたしは権力とは民衆の欲望の鏡のようなものだと考えていて、単純に民衆を蹂躙する存在として権力が在るというようには考えていません。堂海の視野には、おそらく「権力」とひとが口にするときの、そのすべてが見えているに違いありません。
既成概念、上からの圧迫、回りからの無理解、そういったもののなかで、自分にとっての義を見つけ貫かんとすることをもしも正義と呼ぶならば、堂海の行動を正義と読んでもそれは構わない。しかしその行動に至る道程についてできれば少し思考を馳せてみてほしいのです。
思考のキャパシティを大きく超える役を与えられ、苦しみ、崩壊寸前まで頑張った俳優たちのためにもわたしはそのことを書いておきたい。また困難ささえ感じさせず、飄々として役を作っていった盟友のような俳優たちの力にはずいぶん助けられました。もちろんすべての俳優が最終的にきちんと作品に身を供することができたかというと、それは残念ながら為しえなかったようにも思います。わたしはその惨めさをぜひ忘れてほしくないと思っています。思考することが表現となり、表現をすることでまた思考が始まる。表現者としての根本的な喜びはそれ以外にはないと明言できます。
それは劇作家や演出ばかりの仕事ということではない。
そしてできることであれば、お客さまにも、できる限りシンプルに構築した物語のなかに複雑な思考を精緻に張り巡らせようという意図があって書かれたものだということを前提に、出来ていること、出来ていないことに対し、厳しい目を持って対峙していただければと願ってやみません。
ご来場ありがとうございました。
今回のような物語に「熱き物語」という評価をいただくことはとうぜんのことであると思います。大正という時代の持つファンタジーはまさに人間の持つ熱量の大きさであり、それを提供するために、俳優の身体改造を含め、様々工夫を凝らしました。
ここから先は伝わったことと伝わらなかったことを誰かのせいにするつもりでは書いておりませんので、それを踏まえたうえで、作り手の真情というものに触れたいという方のみお進みください。作り手は、意図はすべてお客さまの手に委ねるべきものです。これまでほとんど書くことはありませんでしたが、今回はいろいろ考えたうえでの例外として書いております。
演出家として日々考えていたことは、この物語の持つ、冷えた批評性をどのように伝えるかということでした。こういった熱き物語は俳優を燃やし、稽古場を燃やします。そのなかで現在の劇作家である詩森がちりばめた、おそらくはとても解りづらい批評性をどう伝え、どう身体化し、作品としていくか。
つまり、日の出新聞が是であり、ほかが非である、というラクな光の当て方から、どうすればもう少し複雑なプリズム上の光を放射する物体へとこの作品を昇華できるか、という戦いの日々であったと思います。このような作業をしようと思ったときに、俳優の持つ哲学であるとか思考力であるとかは相当に重要になってきます。また仮にうまくいったとしても必ずしも的確にお客さまに届くとは限らない。それは、やはりお客さまが観劇以前に持つモノの見方というものにもどうしても関わってくるからです。
終幕近く、主人公の堂海は、大阪まで当事者である若い記者を訪ね、朝日の弱腰について取材することに成功します。ただ熱く反権力として戦う話を書きたいとしたならば、ここで日の出新聞はおそらくその現状を暴き、正義を高らかにうたいあげることでしょう。しかし堂海はシラリとして答えます。「書きません」と。そのかわり一面にかつてしたためた抗議文を全段抜きで載せることを迫ります。
これをただの熱き正義と思われたなら、この作品を作った甲斐というものはほとんどないということになります。
この堂海の行為が示すものは、確かに正義かもしれませんが、自らが思考し、選びとったものです。ただ熱く燃えている人に、おそらくは西村天囚の断腸の声は聞こえない。この他にも、よくある正義の方向に物語が流れていく瞬間に、堂海はときに軽口で、ときに真摯に言葉を尽くしていきます。それが登場人物たちの思考や時間を進めていくのです。堂海と思想を共にする島津や村嶋さえ自分の未明を恥じる瞬間を堂海によって与えられていく。
そしてその堂海も、富永の知識と体験に基づいた深い思想には頭を垂れ聞き入ります。
このあたりの登場人物たちのコンテキスト・サブテキストともなっていく思想については、どんな資料にも書かれてはいません。陸羯南を読み込み、その男の思考に惚れた青年ならばどのような思想を持ちうるのかとね捏造したのが主人公・堂海栄吾ですし、そのほかの人々についても個別にその根幹を為す思想について設定し、そのなかで言いうる言葉をつづっていったつもりです。
また、権力に抗するという単純構造はもちろん使用しているわけなのですが、わたしは権力とは民衆の欲望の鏡のようなものだと考えていて、単純に民衆を蹂躙する存在として権力が在るというようには考えていません。堂海の視野には、おそらく「権力」とひとが口にするときの、そのすべてが見えているに違いありません。
既成概念、上からの圧迫、回りからの無理解、そういったもののなかで、自分にとっての義を見つけ貫かんとすることをもしも正義と呼ぶならば、堂海の行動を正義と読んでもそれは構わない。しかしその行動に至る道程についてできれば少し思考を馳せてみてほしいのです。
思考のキャパシティを大きく超える役を与えられ、苦しみ、崩壊寸前まで頑張った俳優たちのためにもわたしはそのことを書いておきたい。また困難ささえ感じさせず、飄々として役を作っていった盟友のような俳優たちの力にはずいぶん助けられました。もちろんすべての俳優が最終的にきちんと作品に身を供することができたかというと、それは残念ながら為しえなかったようにも思います。わたしはその惨めさをぜひ忘れてほしくないと思っています。思考することが表現となり、表現をすることでまた思考が始まる。表現者としての根本的な喜びはそれ以外にはないと明言できます。
それは劇作家や演出ばかりの仕事ということではない。
そしてできることであれば、お客さまにも、できる限りシンプルに構築した物語のなかに複雑な思考を精緻に張り巡らせようという意図があって書かれたものだということを前提に、出来ていること、出来ていないことに対し、厳しい目を持って対峙していただければと願ってやみません。
# by buraibobo | 2009-05-20 12:31 | 演出日誌

